「管理されなければ人間は怠ける」という思い込み~為末大学の記事を読んで(3)~

為末さんの記事を読んで思ったこと(3)

日本社会=体育会体質/爲末大学

※見出しはスポーツ界に潜む「思い込み」です。つまり、為末さんはそれらを逆であると指摘されています。
※見出し直下の文章は要約です。

<3>管理されなければ人間は怠ける
「懲罰や圧力である程度は能力を引き出せるが、自発的に考えることを奪ってしまいダメにしてしまうことが多い」

懲罰や圧力によって管理するというのは、私は戦争の産物だと思っています。つまり、服従させることで関係を保つという考え方ですね。その逆は、信頼で関係を保つということです。これはマネジメントの本とかでよく言われていることなので、あまり深く書かなくても良いかなと思っていますが(相変わらず記事が長くなってきてます…)、私なりに思うことで言えば、体罰とか懲罰とか圧力とかで管理しようとするのは、相手を人間だと思っていない(誤解を恐れずに言えば動物だと思っている)ということだと思うんですよね。それって犬のしつけじゃんって。

私は、人間と動物は明確に違うと思っています。なので、人間と動物に対する教育や管理の方法は、根本的に違うと考えています。じゃあ、何が違うのか?それは「考えることが出来るか否か」ということです。これは、あまりにも大きな違いです。
例えば、動物はパターン認識は出来ますが、思考を用いて認識することは出来ません。その観点から、動物に対して体罰や圧力で管理するというのは非常に理にかなっています。なぜなら体罰はパターン認識に働きかけるからです。
人間ももちろんパターン認識は出来ますが、人間には人間にしかできない「思考的認識」があります。もし、相手を人間と認めているなら、私はこの人間にしかできない「思考」を用いて教育や管理(この管理は広義での管理です)をすべきだと思うのです。「小さい子どもは動物みたいなもんだから、叩くことは必要」という話を聞きますが、はっきり申し上げるとそれはやっぱり間違っています。小さい子には小さい子なりに分かるように思考に働きかけて考えさせるべきなのです。

ただし、叱ることは大事です。良く思うのは「良い先生」は叱った後に、「なぜ君がしたことが悪いことなのか考えなさい」と声をかけたりそういう態度を示しているということです。態度をとるというのは、「○○が悪かった」と謝りにきたなら、それが正解であれば「よく気づいた」と必ず認めてあげるということです。それをしなければそれは体罰的懲罰です。私は、高校の時にそういう先生と巡り合ったことがありました。私の教育観はその先生がベースになっています。

ちなみに、上の話とは別のことですが、大学の時に、ある教官にこんな質問を投げかけられました。「指導者と教育者の違いは何だかわかるか?」恥ずかしながら私は答えられなかったわけですが、その先生はこう言いました。「指導者は学生を自分のレベル以下に抑え込む。教育者は学生を自分より高いレベルまで持ち上げる。」

(4)に続きます。